2024/04/16 19:40

「日本茶を売っています」と言うようになってから2024年で8年目になる。
それでも頻繁に聞かれるのは、「どうして日本茶なんですか?」という質問である。そしておおむねこれに添えられているのが、「もう少し年配の人だと思っていました」という感想である。

つまり日本茶って、もうちょっと年長者が売っているイメージで、しかも令和6年にそれを比較的若い人が商いにしていることが世間的にはとても珍しいことなのかもしれない。もっと言えば、それだけ参入する魅力がないのかも。

しかし僕にとってそれは必然的なことだったし、昔からの連鎖の先にたまたま僕がいて、それが現代では起業という言葉で言い表されているだけなのだと思っている。

あまりにもよく「なぜ日本茶を」と尋ねられるので、ここに文章として自らの振り返りも含めて、まとめたい。初心の備忘録。

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ことのきっかけは徳島県。

母方の祖父のふるさと、徳島県美馬郡つるぎ町貞光は「家賀(けか)」集落。大きな谷を見晴らすようにして家々がぽつりぽつりと今も残っている美しい山里である。

僕の祖父・武田光夫はここで生まれ育ち、10代のうちに地元の仲間と京都へ渡った。60年以上前のこと。京都で名の知れた大手工務店の創業に携わり、大工として働いた。滋賀県日野町出身の祖母と結婚し、男女の子をもうけ、やがて大阪・高槻市上牧に居を移す。これ以後、祖父は故郷へは時々帰るも、住まいとして戻ることはなかった。僕が大学生のころ、すでに生家は管理する者もなく廃墟同然であった。

祖父は故郷への愛情を惜しみなく言葉にした。人の伝承と山が織りなす家賀という土地で育ったこと、これは祖父にとって何事にも替えられぬ命のアイデンティティとしてあり続けたのだ。そこがどんな素晴らしい風土に支えられていたかを、祖父は僕の幼少期から何百回も繰り返し語って聞かせた。その話のなかにお茶があったことは、当初僕は気にもとめていなかった。

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2014年、祖父は心臓を悪くし自力歩行が難しくなってしまった。それはつまり、あれほど大切に思ってきた家賀を訪ねることすらも容易ならざる状況に置かれてしまったことを意味した。そんな祖父、どっこい家賀の話をやめるどころか、より頻繁に話題にするようになった。絶対不変の故郷の情景が祖父の中にあった。帰れないことが辛いという言葉は祖父の口からは出なかったが、どんな気持ちでいるかは推して知るべし。

それで思い立った。僕が代わりに行って、おじいちゃんの見たい景色を撮り、会いたい人の話を聴けばいいではないか。当人が帰れないことに代わりはないが、何かしらの慰みになってくれれば…という思いから、僕は祖父と話をして何が気になっているかをノートに書き留めた。その会話は僕が知らない祖父の半生を垣間見るようなひとときだった。そして僕は車を走らせた。2014年10月、淡路島を過ぎて四国へ。徳島自動車道を西へ走り、途中、貞光で降りる。そこから川沿いの道を山に分け入り、やがて家賀の集落に至る。


息をのむ谷間の絶景、言葉を失う。流れの早い雲が山々に影を落として次々と陰影が移り変わり、人智を圧倒する荘厳な景色。祖父の故郷。ここで生まれ育ったのだ。

祖父の生家は廃屋になってから相当の年月が経っていた。それでも周囲の雑草が刈られており、隣に住む祖父の古い友人、見定(けんじょう)さんご夫妻が厚意から世話してくれていたのだ。誰も帰るあてのない土地の草刈り。

僕は事前に連絡をせず見定さんを訪ねた。他所から人が訪ねてくることなどあまりない土地。はじめ見定さんは、当然ながら訝しむ表情を見せました。僕は続けた。「この集落出身の、武田の孫です。祖父は足が悪くこちらに帰れる状態でもなく、かわりに故郷の今の状態を見てこようと思って大阪から来ました」

一転して、ぱあっと明るい顔をしてくれた見定さん。あがれあがれと家にあげてくれたあとは、田舎流のもてなし。とめどなく溢れる、集落の古今の話。

山盛りのおやつと一緒に出てきたのは1杯の煎茶。そのお茶は、見定さんが栽培して50年ほどになり、今はもう自力で製茶はできないから、JAの製茶工場に茶葉を持ち込んで製茶してもらっている。このお茶をたっぷりと急須に淹れて、ポットのお湯をおもむろに注いでお茶を淹れてくれた。

それはなんの変哲もない煎茶だった。そして何の変哲もない煎茶のなかに光るものがあることに気がつくまで、ここからずいぶんと時間がかかった。(尊敬する日野町の茶農家、満田さんは「お茶いうんは何の変哲もないもんやねん」と後に言った)

不思議とおかわりの進むお茶だった。何回も何回も茶葉を替えずにおかわりを淹れてもらった。「そんなに喜んでもらったら、嬉しいなあ…」見定さんはクタクタになった茶葉に湯をかける。


祖父は故郷にいたころ、皆でお茶づくりをしていたという。蒸した茶葉を毎年手もみして、自家用に飲んだのだ。それから数十年の時を経てもなお、まだ同じ集落で自家用のお茶を作っている人と出会った。そのお茶の味わいの向こう側に、祖父の幼少期を見るような、その記憶を孫として追体験しているかのような、それまでに抱いたことのなかった気持ちが体を包む。

ここは僕のルーツ、と感じた。生まれていないし暮らしたこともない土地でも、それでもここと自分の生命が深く繋がっていることが実感された。土産に家のお茶を一抱えも持たせてくれた見定さん。野菜も、これでもかという程に。帰路、集落を見渡す見晴台に立ち、この幸運に思いを巡らせ、いつのまにかぼろぼろ泣いてしまっていた。何に涙をしているのか、よくわからなかった。

これは、お茶が言葉を超えて土地と人のかかわりを教えてくれる体験となった。全国で同じように昔ながらのお茶をつくる人たちがいることが分かり、もともと子どものころから急須でお茶を飲む環境で育ち好きだったこともあって、土地土地の暮らしや物語を知りたくなった。今動かないともしかして消えてしまうものがあるのではないかと直感した。見定さんの茶がまさにそのひとつだったからだ。

それからは怒涛の日々。公務員として仕事をする一方、週末になればどこかの茶園を訪ね、怖いもの知らずで畑を、工場を見せてくださいといって歩き回った。そうこうしているうちに人前でお茶を淹れる機会に恵まれるようになり、中途半端に勤めしながらお茶を扱うことに無理を感じ始め、家族と相談をして僕は退職した。(このあたりは書き始めると複雑な話なので大幅に割愛!)

ビジネスの知識がほとんどないまま起業したのが2017年。どうにか続けられて今8年目。とにかく今日もお茶屋ですと名乗ることができている。